静岡陸軍墓地清掃活動~橘中佐小伝

静岡陸軍墓地清掃活動

 静岡護国神社の鬱蒼とした杜は県内各地からの献木で作られました。その山の向こう側に陸軍墓地があります。旧陸軍省、現在は財務省の土地でありますが、きれいに清掃されています。実は清掃は財務省の指示ではなく、沓谷二丁目の町内会および公園をグランドゴルフで利用したグループが無償で行っているのです。大東亜戦争関係の墓地、石碑ばかりでなく百年以上前の日露戦争の墓地もあります。そこに軍神橘中佐の墓があります。

 橘中佐は一軍人として優秀であったばかりでなく教育者としても素晴らしい方でした。日本のために尽くしてくれた意気に酬いるためとその人格を慕うがために我が会では清掃活動をしています。以下に橘中佐の事跡をまとめました。静岡市沓谷付近おいでになることがあれば、是非陸軍墓地に寄られ、手を合わせ清掃に御協力ください。いつでも掃除の出来るよう竹箒などが置いてあります。

 橘中佐 小伝

慶応元年(一八六五年)島原半島の雲仙(うんぜん)市千々石(ちじわ)町に生まれた橘(たちばな)周(しゅう)太(た)中佐は、その高潔円満で情愛深淵(しんえん)のごとく、至誠一筋(ひとすじ)の生涯によって、国の内外(ないがい)に敬慕(けいぼ)された方です。

橘中佐の生涯は、明治一四年、待望の陸軍幼年学校に入学したその日から、一日も欠かさず付けた日記によって明らかにされています。
当時の日本は、西洋諸国の圧迫により開国したばかりで、国民が一致団結し、国力の向上に努めなければ忽(たちま)ち独立を失い滅びてしまう状況でした。橘中佐のような先人の非常な努力によって、開国わずか四〇年たらずで、世界の五大国の一角を占め得たのです。
当時の国難を乗り切るため、一人一人の兵員が最善をつくすようにしなければいけない、それにはどういったように指導していくべきか、橘中佐が終生努力し、最後に最良と確信した教育方法がこの日記には何度も書かれています。

《士官学校の生徒であった時の日記》

「諸葛孔(しょかつこう)明(めい)の兵書に曰く、『士卒(部下の兵隊)がいまだ腰を下ろしていないならば、腰を下ろしてはいけない。士卒がいまだ食事をとっていないならば、上官が先に食事をするようなことがあってはいけない。艱難(かんなん)を共にし、苦労をおなじくせよ』と。いま、共に楽しむは易(やす)けれども、おなじ苦労をすることはなかなかできることではない。けれども、信義恩愛の道をもって自ら守れば、ともに苦労し、ともに憂うることもけっして難しいことではない」

《卒業後最初に赴任した青森連隊小隊長であった時の日記》

「将校たる者は部下を愛するの至情を基礎としなければならない。己(おのれ)が食を欲する時は兵の餓(う)うる時なり。己、眠りを欲する時は兵、眠りを欲する時なり。部下を思うの心篤(あつ)き人ならでは、時宜(じぎ)に適した処置を講じえざるなり。みな愛と誠にほかならず」

「青森地方の兵隊の特徴として、軍紀(軍隊内の風紀)を守り忍耐力に富めども、活発の気性(きしょう)に欠ける。剣を抜き目をいからして大声を発して威嚇(いかく)して叱(しか)るのみにては、この人間天賦(てんぷ)の気性はかえるべからず。兵卒の信用を得ることこそ必要であり、信用は求めて得るべからず、ただ誠心をもって接するにあり。炎熱焼くが如き時も、兵卒休まざれば休まず、兵卒汗をぬぐわざればぬぐわず。兵卒、室に入らざれば入らず。士卒と艱難を同じくし、労苦を等しくする時は士卒も死を致す。死を致すは即ち信用をその人に致せばなり」

・・・原文は漢文

また青森連隊当時、第一小隊長であった橘少尉は、たとえ他小隊の一平卒であっても、家族に不幸があれば中隊(三個小隊からなり構成員一九〇名程度)をあげて悲しみ、本人が病没の不幸にあえば痛哭(つうこく)嘆息(たんそく)してその父兄に対し中隊あげて誠意を表しました。

橘少尉は誰よりも早く出勤し心身の鍛錬に努め、小隊、さらに中隊の士気も益々上がりました。そして中央より軍人の模範と目(もく)されて士官学校卒業後わずか四年後、東宮(とうぐう)武官(皇太子殿下の側近に侍(じ)する)に抜擢(ばってき)されることになりました。

 橘中佐の至誠の教育は、もちろんやさしいばかりではありません。
明治天皇にようやく恵まれたただ一人の親王である皇太子殿下(のちの大正天皇)は、幼少の頃は御身体(おからだ)が丈夫でなかったと伝えられています。東宮武官となった明治二四年(大正天皇、当時一二歳)以来五年の間、橘中佐の日記には東宮殿下のご健康を心配する記述と、回復された時には心底からの喜びが記されています。
 明治二五年、病床に伏された東宮殿下を心配し、外出をはばかって御病気平癒(へいゆ)を祈りました。ちょうどその時、長崎から橘中佐の御父君が東京見物に出て来られましたが、その四〇日間お供もせず、謹慎をするのです。そのような橘中佐ではありましたが、東宮武官となった最初の夏、皇太子殿下を徹底的なスパルタで水泳訓練をした様子が伝えられています。

 海水浴をするということで、皇太子殿下とご学友を小舟に乗せ沖に出ます。まず侍従(じじゅう)、舎人(とねり)、武人(ぶじん)たちが飛び込んで泳ぎ始める、そこで橘中佐(当時、少尉)が「さあ殿下もお入りなさい」と言ってバタバタされる殿下を否応なしに海にほうりこんでしまう。水を飲んでもう沈んでしまうとなると、やっと腕を掴(つか)んで船に引き上げ、しばらく休めばまた海にほうりこむ、これが水泳練習の最初の日で、これなど心底、徹底した忠誠心、愛情がなければできないことです。

この後(のち)も、遠泳途中で殿下の足を引っ張り、たどりついた筏(いかだ)をぐらりと傾けて水に落としたり、手荒な鍛錬を行いました。

また殿下御自身も、橘中佐の期待に応じられるかのように一五歳の冬には自らの発意で厳寒一月、三〇日間、剣道の寒稽古を行われました。橘中佐の日記には、「このように霜、庭上に満ち、寒風、面(おもて)を切る朝の五時四〇分から一時間、休まず心気を練り、体力を養う者は天下に少ない、まことに特筆大言して後世に伝うべし、豈(あ)に感泣(かんきゅう)せざるべけんや」と感激を記(しる)しています。

明治三〇年、橘大尉は陸軍戸山学校の教官となります。ここで多年の研究成果として、『兵に対して一片の訓示をもって良しとせず、自分みずからが率先して行う、また故郷(くに)を離れて不安な兵の心を安んじさせ、業務をしっかり務められるよう、誠心誠意、こころを配り、その喜憂(きゆう)をともにする』ということを実践しました。

この時期、率先実行の成果である『歩兵夜間教育』『森林通過法』を著作し、二著は陸軍全軍の必読書となり、後の戦闘に非常に役立ったと言われています。

また戸山学校とは、全国の連隊から戦技(剣術、銃砲などの技術)を学ぶための学校です。ここで橘大尉の薫陶(くんとう)をうけた将兵達は原隊(げんたい)(出身の連隊)に戻り、大尉の勤勉と功績を讃えました。日本全国の将兵が橘大尉を慕い尊敬するようになったのです。

五年間の戸山学校での抜群の成績を認められ、明治三五年、少佐に進級、名古屋の幼年学校の校長に抜擢されました。橘少佐の教育方針が以後の陸軍の教育方法となったわけです。

幼年学校は全国から優秀な中学生を選抜した陸軍の学校です。陸軍の最高幹部には幼年学校出身者が多く、終戦後にもいろいろな分野で活躍しています。ここでも麗(うるわ)しいエピソードが多々ありますが割愛し、いよいよ最期となる日露戦争に入ります。

橘少佐は出征にあたって、後顧の患い無きよう、幼年学校の指導方針を指示し、夫人には、「生徒が今迄のように遊びに来てくれたなら自分たちの子供のように大切に可愛がってやってほしい」と手紙をしたためました。また夫人に出征の喜びを伝え「要するに、自分がつねに狂人のごとく朝早く起きて運動せしは全く今日の為なり。必ずその効能あるべきを信ずるなり」とも書きました。

明治三七年八月一一日、歩兵三四連隊第一大隊長に補せられます。橘中佐で有名になった三四連隊(静岡連隊)ではありますが橘中佐(当時少佐、戦死で中佐に昇格)の在任期間は三一日までのわずかな期間です。すでに連隊は日露の初戦で大殊勲(しゅくん)を挙げていましたが、信望篤(あつ)き橘少佐の着任を聞き、連隊はますます喜び活気を呈したのでした。

橘大隊長戦死までの間、大隊長に近侍(きんじ)し遺体を守りぬいた内田軍曹(富士市)の初対面の手記がのこっています。

 「筋骨隆々、銅像の如く鍛錬された体格の持ち主で、しかもその肉体の下に、肉体よりもさらに一層鍛錬、修練された立派な人格が包蔵されていると思うと、自ずと頭の下がる思いがした。親しむべく、冒(おか)すべからず、春風の如き温容と、秋霜の威容、その二つが渾然(こんぜん)となって稀有(けう)の人格であり、存在であった」

  戦場にあっても橘少佐は五時起床全身を水で清め、勅諭・勅語の奉読をし部隊の巡視、教連の指導を行いました。司令部からとどく物は、たとえ一本の酒であっても、大隊全部に分配し、特に傷病者については愛情を注いで見舞い、新聞雑誌などを送りました。

  また巡視の際、部下に過失を見つけると、けして見逃すことはありませんが、まず情状を明らかにし、懇切に訓戒し、またわずかでも賞すべき事があれば大小によらず熱心に称揚(しょうよう)しました。

  八月三一日未明、橘大隊は敵機関銃の猛射の中、ぬかるむ坂道を横一線に七〇メートル駆け上り、まず愛刀をふりかざした橘大隊長が敵堡塁に切り込みました。銃剣を突き出す三人を斬ったところを敵弾の一発が右手を傷つけさらに左腕を打ち砕く。続く部下達が大隊長を守りながらついに第一塁を奪いとり、すぐさま一五メートル上にある第二塁・頂上に突撃を命じました。負傷兵までが這(は)って前進し、ついに首山堡(しゅざんぽ)の山頂を占領した朝六時前には数百人が六〇人程になってしまっていました。

  大隊長は頂上で戦闘指揮中、下腹部に敵弾が命中、それでも仁王立ちになって塁上で指揮をとっていましたが、ついに敵の砲弾の破片が腰を砕いてしまいました。この後、駆けつけた上官の命令で、内山軍曹は倒れた大隊長を仮包帯所へ連れて行こうとします。けれども激戦のさなか更に数発、大隊長と内山軍曹とふたりとも撃たれてしまいます。這いまわり大隊長の出血を止める算段をしながら、思わず内田軍曹が「衛生兵はなぜ出動しないのだ」と我を忘れて声に出したところ、いままで一語も発せずにいた大隊長が「内田軍曹、決して他のものを恨んだり、咎(とが)めてはいけない何事も運命のしからしむるところだ」と注意することも有りました。頂上は奪われそこかしこロシア兵の声が聞こえるような所で脱出かなわぬ中、強健な肉体をもつ橘大隊長は十数時間、頂上の戦況を尋ね、部下の安否を心配し生きながらえていました。いよいよ亡くなる前には仰向けに姿勢を正し「わしはもう死ぬ。今日は八月三一日、我が皇太子殿下御誕生のおめでたい日である。この日において皇国のために戦死するのは実に名誉であって、また周太の本望である」そしてさらに占領したはずの首山堡(しゅざんぽ)の状況を尋ね、味方の安否を尋ねた後、従容(しょうよう)として瞑目(めいもく)したのが最期でありました。