静岡保守の会|会報12月号

 引き続き台湾編です。明治二十八年、日清戦争の後、正式に台湾は日本の植民地となりました。

 当時の明治政府は新領土である台湾の発展に、まず必要なものは教育だと考えました。

 台湾は清国から化外(野蛮で教化が及ばない)と呼ばれ、コレラや赤痢、マラリアなどの風土病が蔓延し、さらに首刈り族が跋扈する、「三年に小反、五年に大乱」と呼ばれた治安の悪い土地でした。
東京師範学校(現筑波大学)、東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の両校長を歴任した四十四歳の気鋭の文部官僚である井沢澤修二は、みずからこの台湾の教育に身を投じ、赴きました。

ハーバート大学に留学した、英語に堪能な伊澤は、英国人から「植民地の人間に教育を施すと、本国に反抗するものを育てることになる」と助言されました。

これに対して伊澤は「台湾人も日本の同胞友人として、互いの言葉を学び、台湾人の宗教、文化を尊崇し将来混合同一化していこう」との方針を決定しました。

 夜市で有名な台北の士林(しりん)に芝山巌(しざんがん)と呼ばれる小丘があります。二十八年六月、ここに伊澤は初めての教室「芝山巌学堂」を設立しました。

 この外来の学校に、半信半疑に参加した有力者の子弟六名は、日本人教師とまさに寝食を供にし、四ヶ月後、十一月には台湾総督、台北県知事ら高官の祝福の元、海軍軍楽隊の演奏に送られ無事卒業を果たしました。後に台湾のいしずえとなる卒業生達の感激を綴った手記が残されています。

 ところが翌年正月、芝山巌事件が起こります。皇族の身でありながら台湾に出征していた北白川宮殿下がマラリアのため台南で薨去され、付き添いとして伊澤修二と芝山巌学堂の先生ひとりが帰国中、残っていた先生方六人全員が遭難する事件が起きました。当時のように通信や教育が未開の地域では流言飛語が暴動や悲劇を引き起こすものです。

 悲劇の前夜から襲撃のうわさがあったのですが六名の先生方(六士)は、「この危難の時にあたり、文力では敵に抗することのできないことを知ってもしこれを避ければ、臣子の道を失することになる。我等の命運は天に任せるほかはない。すべてを吾らの職務のために尽くし、職務と存亡を共にするのみである」と、生徒のみを解散させました。けれども首をとれば賞金が手に入ると聞いた百名にものぼるゲリラには説得の効なく首を切られ衣服までも剥ぎ取られ惨殺されてしまいました。

 帰国中の伊澤は悲嘆にくれましたが、教師の募集を開始します。その時の言葉は、まことに日本人らしい、公に殉じ、誠意に満ちた言葉でした。

「台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく)の精神を費やし、数千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる」

「教育と云うものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育をしようと思って出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びず(武器を持たないこと)して、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云うものは出来ませぬ。此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来ようと思います」

 この募集に全国から三百名もの応募者があり、合格者四十五名が水さかづきを交わして台湾に向かいました。

 この精神を台湾では芝山巌精神と呼び、芝山巌は台湾教育発祥の聖地と呼ばれるようになります。

 いまでもここに伊藤博文揮毫の高さ三メートルもの「学務官僚遭難之碑」が建っており、当時の学堂は蒋介石政府によって破壊されてしまいましたが、代りに小さな雨農図書館なるものが建てられ女子中学生が一人読書をしていました。

 景勝地である芝山巌の小丘には木製桟橋の遊歩道が施され、台北市街がよく見渡せます。中腹には、台湾人のまごころからでしょうか、外省人の反日教育にも拘らず、六士先生の墓が整備されて残されていました。墓石の所々、傷がわざとつけられているのを見ては、残忍な支那人に哀れみを催しますが。

 伊澤修二が台湾に遺したものが、まだあります。伊澤修二の作曲と言われる「仰げば尊し」は台湾の学校の卒業式では必ず歌われる歌なのだそうです。

芝山巌中腹にある道教寺院まえで、灯ともし頃、暮れゆく台北市街をツアー仲間と見ていました。その一人が中国語の「仰げば尊し」のユーチューブを流していましたら、台湾人が「日本人ですか」と日本語で声を掛けて来てくれました。

いまだに日本語を話せる方が居ると同時に、若い人達も日本語の勉強をされている方が多いそうです。中共政府が台湾への観光客を絞っていると言うことなので、我々日本人がこぞって行ってあげましょう。




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