静岡保守の会|会報7月号

 今年6月、眞子内親王殿下がブータン王国を訪問されました。

 その際、ブータン農業の父と呼ばれた西岡京治(昭和八年一九三三~平成四年一九九二)氏の功績を記念する西岡ミュージアムを視察されたというニュースがありました。

 ブータン王国は中国とインドに挟まれたヒマラヤ山麓の人口八十万ほどの小国です。六年前若き国王夫妻が来日され、「幸せの国」として有名になりました。なんと国民の九七%が「幸福です」と回答するというのです。この幸せの国を作るに、いささかながらも、日本人の尽力があったとは嬉しいことです。

 昭和三十三年(一九五八年)、大阪府立大学の中尾佐助教授のもとに、ブータンの首相から直接「日本の農業専門家を派遣してほしい」との依頼がありました。ヒマラヤ山麓での農業は難しく、食料の多くはインドからの輸入に頼っていたのです。

 また当時隣接して存在していたシッキム王国では、農地開墾のため一九世紀末、イギリスの後押しで移住してきたネパール人が増えすぎ、大混乱が起きていました。(このネパール人流入が原因でシッキム王国は一九七五年滅亡しています)

 依頼を受けた中尾教授はすぐに大阪府立大学のネパール学術探検隊に副隊長として参加していた西岡京治(にしおかけいじ)氏を思い出しました。

 性格が穏やかでしかも謙虚。友情に篤く、誠実な努力家。そして何よりも根気と忍耐が必要とされるブータンでの生活を成し遂げられるのは、教え子であった彼しかいない、と教授は確信したのです。

 ネパール学術探検隊に参加してヒマラヤの自然の美しさや、そこに住む人々の暮らしぶりに触れていた西岡もまた「ヒマラヤの人々に何かできる事はないか」と考えていた矢先ですから恩師の呼びかけに二つ返事で承諾しました。

 昭和三十九年、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)から正式な派遣決定の通知が届き、その年四月、結婚三年目の里子夫人(現在七十五歳)とともにブータンのパロという町に赴任しました。

 西岡はさっそく農業局に出向くと、局長のインド人から「ブータンの農業はインド人が一番知っている。遥かな日本の農業を持ち込んでもうまくいくわけがないし、ブータンの人間も新しい方法などやる気はないよ」と言われてしまいます。

 ブータン王国のイギリスからの独立の条件として、すべてインドの指導を仰ぐよう求められていたのです。

 すぐに西岡はブータン政府に掛け合い、わずかに六十坪の土地と十二,三歳の少年三人を与えられました。

 まず西岡が彼らに教えたのは大根の栽培でした。畑の耕し方から種の蒔き方、土のかけ方を一つひとつ丁寧に実演して見せたのです。大根は昼と夜との温度差が大きいほどよく育ちます。

 収穫した大根はブータンではだれも見たことのない大きなものになりました。その後キャベツやトマトの栽培が成功するとうわさがうわさを呼び、よその村や国会議員などが見学に来るようになりました。

 二年目には国王自らの命令で、広さ三倍の本格的な試験農場を作ることが出来ました。ここの近隣の村長を招待し種子を持ち帰らせるとともに栽培指導にも出かけていきました。このようにしてブータン農業の近代化が瞬く間に進められ、西岡の試験農場から日本への農業留学も行われるようになっていったのです。

 ブータンに来て八年、今度はブータンの中でも極貧の地といわれたシェムガン県の開発プロジェクトを任されることになったのです。ここに住む人々は焼き畑農業で何とか命をつなぐ生活でした。今まで地元の役人さえ来ない、車道さえない土地でした。

 ここで水田を作り定住ができる、と言われても容易に信じられるものではありません。失敗すれば飢えて死ぬか、成功しても国に土地を取られてしまうのではないか、そういう疑心暗鬼がありました。 
 これに対して西岡は強硬に推し進めるのではなく、粘り強く話し合いを持つこと八百回に及びました。

 こうして開かれた水田は六十ヘクタール、三万トンのコメがとれるようになりました。人々は焼き畑を求めて移動する必要もなくなり、野菜も作り食べることが出来るようになりました。学校もできました。

 西岡が村を去る時には、村の老人たちが集まり「西岡さんがはじめに話してくれた通り、夢のような新しい生活ができるようになりました」と涙を流して手を握りあったということです。

 平成四年、ブータン農業の近代化が軌道に乗り、西岡が帰国を考えた矢先、突然の敗血症でそのまま現地で亡くなりました。享年五十九歳でした。葬儀は国葬で行われました。

 ここ一か月ほど、四十年前シッキム王国のあった地域に中国軍が侵入しています。またその西隣のネパールでは共産主義勢力の浸透で謀略、騒乱、殺人の果て中国の影響下、王政が廃止されました。ブータン王国も少しづつ少しづつ中国に領土を削り取られて行っています。

ブータンは教育熱心で、授業を英語で行うほど国民の意識は世界に開かれていますが、海外に移住しても必ず祖国のために戻るという愛国心にあふれています。国土は天然の要害で守られ、外国人の流入は極端に制限されています。

 これを「自由がない」と批判する人もいます。国民が幸福だと思っているのも「欲求を抑えているからだ」と批判する人もいます。それでは私は聞きたい。騒乱や犯罪、戦争の危機よりも「自由」の方が大事なのか。

 平成二十三年、ブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が国賓として来日され国会で演説されました。その時「ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。

 両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります」と語られました。

 この言葉は西岡京治氏に寄せる思いと、幸せの国に「自由」を武器にして襲いくる戦乱の危機を念頭にしたものではなかったでしょうか。




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