「11月の富士川楽座パネル展」|会報 令和元年10月号

「11月の富士川楽座パネル展」

 11月22日から28日にかけて、東名高速道路PAから入場できる富士川楽座において「わたしたちの皇室」パネル展を開催いたします。

 このパネル展は、女系の天皇というものがありえないことを一般の人々に伝えるためのパネル展です。

 日本史上、八人の女性天皇がいらっしゃいます。
最初の女帝は推古(すいこ)天皇(在位593~628年)です。当時はまだ豪族たちが天皇家に対し大きな力を持つ時代でした。

推古天皇の夫である敏達(びたつ)天皇が崩御され、次の用明(ようめい)天皇、崇峻(すしゅん)天皇がはやくに亡くなります。(崇峻天皇は暗殺です)

大豪族たちが対立しそれぞれに近い皇子を天皇に擁立しようとせめぎあう状況で、胆力があり、明晰な判断がとれる、しかも前の前の皇后というだれも逆らえない推古天皇が女性ながら初めて皇位に就かれるのです。

推古天皇はその治世の中で、聖徳太子とともに初めての憲法を制定し、法律・官僚機構を整備し、豪族を支配下におく中央集権国家を作り上げていったのです。

 現代、女性週刊誌や一部の官僚人脈が「愛子女帝」待望論を掲げていますが、でも罪もない秋篠宮文仁親王殿下、悠仁親王殿下の皇位継承資格を剥奪してまで神代以来続いてきた法を改定しなければいけないのでしょうか。

推古天皇は抜群の政治能力があったために、また非常時であったために登極(とうきょく)して皇室をまもり、日本の礎(いしずえ)を築いたのです。

 皇極(こうぎょく)天皇は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)が16歳の少年であったため中継ぎの為に即位しました。

一時譲位されて、孝徳天皇が即位されますが中大兄皇子に憤死させられ再び斉明(さいめい)天皇として即位されます。

 次の持統天皇から元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)4人はすべて天武系の血筋を守るために即位された女帝です。

この間、二人の天皇をはじめ、多くの皇族が殺害、流罪にされています。

このように正道が乱れた時代、聖武天皇も何がどうでも藤原系の自分の娘を天皇位に就かせます。孝謙天皇(重祚して称徳天皇)です。

結局称徳天皇は皇族でもない道鏡を天皇にさせようとして破綻してしまいました。

この経緯をわかりやすく図にしてみましたのでご覧ください。

 

 
 なお称徳天皇の次代を継いだ天智系の光仁天皇は、即位されるまで日々酒を飲み暗愚を装って難を避けていたと言われます。

皇位に就かれた時には62歳、それまでは陵墓の造営を担当する一般の役人でした。その長男が、平安京を作った有名な桓武天皇です。

今、戦後皇籍を離脱した11宮家の方の皇族復帰について、「その方々は俗世間に染まっているから国民に支持されないはず」と反対する意見がありますが、このような前例があるのです。

また現皇室の直接の祖にあたる第119代光格天皇(在位1780~1817年)の生母は鳥取藩の家老の元家来でしかも浪人となった人の娘です。

二千年の歴史を持つ国家、皇室にはユニークな経歴の天皇があっても当たり前です。けれども一人として神武天皇の家系でない者はありえないのです。

なお江戸初期の女帝、明正(めいしょう)天皇は父である後水尾天皇が、突然徳川幕府に反抗して譲位したもので、弟が生まれ11歳になるまでの中継ぎでした。

最後の女帝である後桜町天皇は後桃園天皇が12歳になるまで7年余り皇位にありました。

 実際のパネル展は無関心な人たちに寄っていただくために、あえて詳細な議論はしていません。現場では楽しく、大勢の人たちの考える端緒になってほしいと思っています。




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