「日本人の記憶」|会報30年11月号

「日本人の記憶」

 十一月九日から三日間、長泉町下土狩(しもとがり)駅、横隣りのコミュニティ長泉にて、静岡保守の会主催のパネル展を行いました。

 この町は一万年前(たぶん)の溶岩の上にできた町でいたるところ庭石も含めて溶岩が見られます。

何といっても立派なのは駅から五分ほど歩いたところにある「鮎壺の滝」です。

パネル展を開いた施設の同じ階にある「ながいずみ観光交流協会」の事務局長さんが世話好きな親切な方で、この鮎壺の滝で黒澤明の映画「七人の侍」が撮られたことを教えていただきました。

その映画を見せながら事細かに話してくれたのです。熱心な語り手の話は聴いていて楽しいし、幸せにすらなれます。自分の住む町を好きになる、周りに住む人を好きになる、それをみんなに共有してもらいたい、工夫して行動する。それが誇りになる、それが人間本来の自然な姿でしょう。

けれどもこれが許せないという人がまた大勢いるのです。国を愛することはいけない、社会の為に自分の権利が損なわれ損してはいけない、働くことは資本家の搾取、仕事を頑張ったり頭を使って売り上げを増やしたりすることは、労働者に対する裏切り等々。

 実はこの下土狩駅は、昭和九年に丹那トンネル開通するまで東海道線三島駅として伊豆の玄関でありました。そればかりか若き皇太子と美しい皇太子妃との思い出の地でもありました。

 明治の古い時代、皇室では家族はなかなか御一緒には過ごさない決まりがあったようです。皇太子殿下(後の大正天皇)と皇太子妃殿下(後の貞明皇后)が新婚を共に過ごせたのはここからほど近い沼津の御用邸でした。

そして珍しく共に馬車で外出をされたのがここの鮎壺の滝だったのです。明治三十六年一月、皇太子二十四歳、皇太子妃十九歳のみぎりでした。

ここで皇太子殿下は「三島駅に富士見瀑(ふじみだき)を観る」と題した漢詩を作られています。

  雲霧は天をおおい、雨雪を催す。

  蕭条(しょうじょう)たる孤駅、行人(こうじん)絶  (た)ゆ。

  車をとどめて一路、林園を訪えば、
  寒瀑(かんばく)、衣にそそいで氷りを結ばんと欲す。

 当時はこの滝を富士見の滝と呼んでいたようです。雪まじりの雨の中、滝のしぶきがそのまま衣服を氷らせてしまいそうだと、当日の寒さを詠っています。

 今は周りに高層のマンションが立ち並んでいますが、長年月地元住まいの家があったなら、この若い二人の姿を伝え覚えているのではないか、そう夢想してしまいます。

 貞明皇后はハンセン病患者などの救済に尽力し、あるいは養蚕を日本の主要な産業であるとみずから奨励し、はては絶海の地に働く灯台守達のためにラジオを送る活動を始めるなど国民とともに励まし、いそしみました。

 大正天皇も皇太子時代には気さくに民間に立ち入り、各地にエピソードを残されています。

清水の興津の山中、現在の静岡市ですが、道路わきに大正天皇の石碑が建っていました。ここには狩りの鉄砲撃ちに来られたようだということがわかり、近所にある関係者のお宅を訪ねることにしました。

 当時(明治の後半)の家長は猟師だったそうで、皇太子殿下や興津の別荘地に滞在されていた明治の元勲たちが狩猟に来られるとその案内をしていたそうです。

そして家にはまだいくつかの巻紙の書簡が残されていました。さすがに殿下のみずぐきはありませんでしたが、猟師だった祖父、曾祖父と皇太子殿下とのエピソードについては今の子孫から伺うことが出来ました。

そうこうしているうちに、子供たちが学校から帰って来たり、親戚の人たちが集まってきたのです。

そしてそこのみんなが大正天皇の事を「皇太子さん」と呼ぶ。小学生の子供までが笑顔で「皇太子さん」と呼ぶのです。一家一族の盛事が「皇太子さん」を中心に語り続けられているのです。

 興津の山中を訪ねたのはもう二十年も前の事ですが、実に幸福を目の当たりにしたひと時であったと今でも思い出しています。
 

 

 
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