静岡保守の会|会報3月号

三月号は、殉国七士の遺骨にまつわる話です。

処刑後の戦犯たちの遺骸はどこにいってしまうのか、GHQの極秘文書には「処刑された戦犯の遺体は火葬に付し、遺骨は極秘裡に処分すること、またその処理に当たっては佐官級の高級参謀に責任を負わせ、遺体の身元や処分した場所など一切外部に漏らさぬ事」とされ厳重に秘匿されていました。

遺骨は遺族に渡されること無くいづくともしれず処分されたのです。
けれども横浜市西区の久保山火葬場(現久保山斎場)では、場(ば)長(ちょう)である飛田美善(ひだびぜん)が、新聞に載る戦犯処刑数と火葬場に搬入される棺の数が一致することに気づいていました。
戦犯裁判で小磯国昭を担当した三文(さんもん)字(じ)正平(まさひら)弁護士は「いやしくも武士が死刑になって骨も祭られぬとあっては東洋人として忍びない」と涙を流して東條元首相ほか七士の遺骨をGHQから盗み出すことにしたのです。軍政下の当時にあっては銃殺の危険すらある行為でした。そして久保山火葬場で火葬されると言う情報を得たのです。

久保山火葬場の前には、偶然にも三文字弁護士の親友である市川伊雄(ただお)師が住職を務める興禅寺がありました。さっそく市川師が飛田場長を呼び、ふたりで盗み出しに躊躇する場長を涙ながらに説得したのです。

昭和二十三年十二月二十三日、皇太子殿下(今上陛下)のお誕生日の午前零時一分から三十四分、七人の処刑が行われました。

早朝、飛田場長は米軍から呼び出され「場長と火夫長と二人だけで火葬の用意をしろ」と命令されます。午前七時に米軍の大型トラックが到着し、米軍の指揮のもと、七つの炉を使い火葬を行いました。およそ一時間半の後、火葬がすみ遺骨は米軍の手により砕かれて骨壷に移され、どこかへ持ち去られていきました。けれども残った灰は、火葬場内にある共同骨捨場に捨てさせられたのです。

共同骨捨場というのは深さ四m、広さが二坪ほどのコンクリートの穴で、行き倒れになった人の骨を捨てておく場所でした。捨てさせられました。さいわいにもここしばらく行き倒れも無く、その時には穴はきれいに清掃されていたのです。

翌日のクリスマスイブ、浮かれる米軍キャンプをよそに、夜九時、三文字、市川、飛田の三名は火葬場に忍び込み骨捨場に遺骨のあることを確認しました。、骨捨場の穴の入り口はわずか幅十二センチ長さ三十センチと狭かったため、さらに翌二十五日、長さ四mの棒の先にカキあげるもの(空き缶との説も)を用意しました。そしていてつく深夜、米軍の兵士が銃を手に巡回する合い間を見計らって一升ほどの残灰すべてを集めることが出来たのです。

この遺骨はひとまず三文字氏の甥(おい)の骨ということにして、市川住職の興禅寺本堂の目立たぬところに保管されました。

翌年四月、三文字氏より遺族に遺骨が隠されていることを連絡、五月には遺族が熱海の松井邸に集まりました。関係者のみの大供養の後、各家族のもとに遺骨を分配しようとしたところ東條勝子未亡人の「おわかちしていただくのは非常に有り難い事ですが、分配することによって他人の目にふれることも多くなりましょう。もしこのことがうわさにでもなりますと先生方に御迷惑をおかけするようなことになって、せっかく手元に帰った遺骨も、取り上げられてしまうことにならないとも限りません。しばらくは分配しないで松井さんのところの興亜観音に密葬して頂いた方がよろしいのではございませんでしょうか」との言葉で熱海の興亜観音の像の下に安置されたのです。

A級戦犯七人の処刑が終わると、急速に戦犯に対する関心が米軍内部でも薄れていきました。もともとが復讐心から出たことでありましょうし、昭和二十五年には東京裁判を主宰したマッカーサー自らが戦犯の早期の釈放を指示しています。

話はさかのぼり、火葬された遺体が巣鴨で処刑された戦犯たちだと気づいた飛田氏は残った遺灰(遺骨はすべて米軍に持ち去られていたから)を火葬場内に掘った穴に隠していました。

処刑が打ち切られ世情も穏やかになったころ、飛田氏はここに供養塔を建てても良いか、連合軍司令部に問い合わせました。はたして建立は認められましたが「供養塔」の文字は絶対に書いてはならぬこと、建立者名も職員の六名のみと指示されました。今も久保山斎場には、巣鴨で処刑された六十名の遺灰とその上に立つ此の供養塔が残されています。

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の主権が回復された昭和二十七年頃、第一復員局から七家族に桐の小箱で遺骨が下げ渡されるということがありました。他の多くの戦死者同様、箱の中身は空の遺骨だったかも知れませんが遺族はそれを遺骨として受取り遺骨として祀りました。日本軍戦死者の遺骨のほとんどは日本に帰って来れなかったのですから。そのようなこともあり、七家族で遺骨を分配するという意味もなくなってきたのです。

昭和二十八年、言論の自由を得た日本人の多くが戦犯達の処遇を哀れみ、野党を含めた国会議員とともに早期釈放を求める国民運動が起こりました。

この様な中で、ニセ物残灰事件という椿事もありました。

昭和二十八年、長野県の農家から「A級戦犯の遺骨が手に入ったので慰霊祭を行います」という封書が東條家に届きました。一時は長野に駆けつけるつもりであった勝子未亡人は、銀座に三文字弁護士を訪ね、さらに三文字氏が横浜の久保山火葬場に向かい、火夫長から「遺骨はお渡ししただけで、長野県にあるはずはない」と確かめられました。

昭和三十三年ごろより政財界から七士の遺骨を、新しく国定公園になった風光明媚な三ヶ根山に移して祀ろう、という話しが出てきました。三ヶ根山は日本の中心にあり松井岩根大将の出身地に近いという事もありました。

地元住民の中には戦争犯罪人の墓を持ってくるとはけしからん、という声もあり三ヶ根山の観光に役立つという声もありました。結局、愛知県議会議員や幡豆町町長の苦労があって、昭和三十五年幡豆町三ヶ根山山頂に「殉国七士墓」が建立されたのです。

文中、遺骨、残灰の表記がありますが、これは火葬の場面に異なる二説があるためです。私の今書いたエピソードですと灰はあっても骨はほとんどなかったと考えられます。もう一説では『火葬中、飛田氏が七人の炉から少しづつ遺骨を取り出し七つの骨壷に入れて隠していた。遺骨をトラックに載せた後に、米兵が骨壷にうっかりたむけた線香の香りに気付き、これを奪い取って粉々に砕いたのだけれども、いまさらトラックの骨壷に入れるのも面倒になり骨捨場に捨てたのだ』という説です。これならある程度の骨が残っていると言えるでしょう。二説とも、当時をよく知る人が精確を期して当事者に取材した話です。

また盗み出したのが二十四日説と二十五日説があり、ほんの七十年前の事ですが今となっては憶測するばかりです。




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