静岡保守の会|会報4月号
保守の会会報四月号
私の尊敬する上念司氏が、教育勅語について、これは江戸時代の人たちが考えたものと同じ道徳観ですという、まったくの誤解をしていたので、いつもの先人に光りを当てる、という趣旨と違えて、今月号はわたしの個人的な意見を述べたいと思います。
思えば教育勅語の出された当時、日本の文学、歴史学の最高の権威であった、重野安繹(しげのやすつぐ)も上念氏とまったく同じ認識で、教育勅語の発布を寿(ことほ)いだ文章を、漢文教科書に載せていました。
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明治初年、西洋思想が世の中を席巻し、功利主義がもてはやされて、日本人の持っていたすべてが旧弊なものとして捨て去られようとしていました。外務官僚高官の中には教育上日本語を捨て、アルファベットを用い英語を使用すべしと主張するものまで出てきました。この時、明治天皇がこの教育勅語を出されなかったなら、数十年後の明治日本は今のフィリピンのような国になっていたかもしれません。
幕末以来、日本の危機を意識して、西洋の思想を研究してきた志士たちは西洋思想の欠点にも気が付いていました。国学(仏教・儒教以前の、日本にもともとあった者の考え方を研究する学問)の充実により、儒教の批判ができる国になっていたのだと思います。そこで支那の借り物の儒教道徳でなしに、当時の日本人が普通に培ってきた感覚・感情をもとに新しい徳目が作られたのです。
勅語の条条をひとつずつ点検すれば容易に感じ取れることだと思います。
江戸時代までは、「五倫」というものが人として守らなければならない根本道徳でした。その五倫とは
① 父子、親あり
② 君臣、義あり
③ 夫婦、別あり (女は夫に仕え、姑に仕え、婚家を守ることが仕事である)
④ 長幼、序あり
⑤ 朋友、信あり の五つの徳目です。
これが教育勅語では
① 父母に孝 (父だけでなく母にも。また親と孝は違います)
② はなくて
③ 夫婦相和し
④ 兄弟に友 (序列があるのではない)
⑤ 朋友相信じ
となっています。
②の「君臣、義あり」ですが、これは日本の教育勅語には「無い」のです。似た言葉で探して見つかるのは、最初に出てくる「まごころ」とも訳せる「忠」の語です。
支那三千年の歴史では臣下はいくら高官となって贅沢を極めようと、ひとたび逆鱗に触れれば罪せられる奴隷のようなものでありました。
教育勅語には「我カ臣民克ク忠ニ」とか「義勇公ニ奉シ」などとありますが、終わりのほうに天皇自ら「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ」と述べられている事から分かるように「忠」とは、臣下を奴隷視する支那流の「君臣の義」とはまったく別のものなのです。天皇も臣民と共に「忠」を尽くすと述べられているのです。
では何に対して「忠」なのか。
教育勅語に「国体」の語が出てきますが、教育勅語全体が、この「国体」感に沿って造られ、述べられているのです。我々皆が、皇祖皇宗肇国以来の連続の中にいるのだという実感があってこそ天皇自ら、国民とともに「忠」を為して行こう、その内容が教育勅語だと思うのです。
では「国体」とは何か。
「国体」とは一般的には「くにがら」のことだと言われていますが、藤田東湖の「弘道館記述義」に、国体の定義が説明されています。(この弘道館記述義は幕末の志士も明治の元勲達も等しく読んだ書物です)
上ノ人(天皇)ハ生ヲ好ミ民ヲ愛スルヲ以テ徳ト為シタマヒ、下ノ人ハ一意上ニ奉ズルヲ以テ心ト為ス。此レ国体ノ尊厳ナル所以(ゆえん)ナリ。
としています。
この日本のくにがらは、支那流の、土地・人民・官僚すべて皇帝の持ち物であるという国とは全く違いますし、西洋の歴史である、国王が経済や領地を貴族・領主・資本家と競って来た国とも全く異なるのが分かります。
長谷川三千子先生が、(教育勅語の話は出てきませんが)藤田東湖の文章を分り易い言葉に翻訳した本があります。それを記して四月号の終わりとします。
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「宝祚無窮」(皇室が極まりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一のこととして常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自づから日本に従い服すること)の四つが実現されてゐる、さらにそこで重要なのは、これら四つの事柄が互ひに循環し、つながりあってゐるといふことである。
中略
すなはち、天皇が民を「おほみたから」として、その安寧を何よりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ。
「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」より 長谷川三千
Tweet投稿日: 2017年4月20日 木曜日