静岡保守の会|会報5月号

保守の会会報五月号

昭和四十七年(一九七二年)五月十五日に沖縄が日本に復帰してから四十五年が経ちました。

「頑張れ日本!全国行動委員会」がこの本土復帰の記念日に那覇で或いは辺野古で日の丸行進をするというので小生も沖縄に出かけて参りました。

小生は、頑張れ日本のメンバー(水島社長を含む)が到着する前日に沖縄に着き、ひとり飲食店を探索しました。とあるラウンジのママさんとの会話中、政治的な話を特に私の方から振ったわけではありませんでしたが「翁長知事になってから中国人がすっかり増えてしまった」「内地の方からデモにおかしな人たちが大勢来ている」と話しかけてきました。

そこで「じつは僕らは辺野古の基地反対派の反対のために集まってきたんだよ」と言ったところ「ええっ、そんな奇特な人が内地からわざわざ来てくれているの」と驚いていました。

また、わが保守の会会員である橋ケ谷さんが最近購読を始めた「八重山日報」が沖縄本島でも発売されたことを言うと、当該ママさん「あかねさん」はコンビニで八重山日報を買おうとしてなかったこと、新聞販売店では売ってくれないことを残念がっていました。
こんな会話の最中はずっと小声で周りに聞こえないよう気を遣っていました。「誰がどういう繋がりがあるかわからないからね」ということで。

翌朝は、宿泊ホテルそばの対馬丸記念館を訪ねてみました。

対馬丸というのは沖縄から九州に疎開するための千人近い学童を載せ、待ち構えたアメリカの潜水艦よって撃沈された疎開船です。犠牲者は1485名といわれています。

サイパンの陥落では軍人ばかりでなく民間人も多数が玉砕、または殺されました。このため軍部および政府は沖縄の民間人を本土および台湾へ疎開させる計画を立てました。そして一部は沖縄本島北部に移動させようとしました。けれども多くの沖縄県民は、沖縄を離れることに躊躇したため、また北部は未開で生活が容易でないため、結局、沖縄攻撃がいよいよ近づいた時期になって強制的に疎開を実施することになりました。それが昭和十九年八月の対馬丸事件となるのです。

記念館は清潔な感じで展示もおドロドロしいところもなく、まあまともでした。けれども入口最初の、大字の大きな文章(表題というのでしょうか)、そこに一番出だしに書いてある言葉には呆れました。民間人を疎開させたのは軍人の食料が足りなくなるためと、小学生の子供を助けるのは将来兵隊に取るためだというのです。(正確な文章がわからなくて申し訳ありません。まるで民間人には食料を渡したくない、などという下品な書き方だったので記念館のパンフレットを捨てて来てしまいました)

いったい誰がわざわざその様な疎開理由を言う必要があったのか。戦線が近づいてくれば、味方の非戦闘員を逃がそうとするのは世界中どこの軍隊でもあたりまえでしょう。こんな言葉を発するような軍人や政治家がいたはずはない。そんな人が居たとしても、性格を嫌われて日本人が投票する選挙に当選するはずがないし、日本人が運営する軍人組織の中で出世するはずがない。

けれど同じ文章がご丁寧にもう一度、下の階にも大字で掲げられているのです。

ここに連れてこられた沖縄の無垢な子供たちは、無意識下に、社会を嫌なもの人間は邪悪なもの、と思うようになるんじゃないか、そう心配になりました。沖縄で犯罪が多いのも、所得が低いのもこう言った教育のせいではないか、と思いました。

夕方はチャンネル桜沖縄支局での懇親会に出席しました。向かう途中のタクシーでは、運転手が翌翌日が沖縄返還の日だとは知りませんでした。沖縄返還反対のNの団体の運動が、信じられないことに当の沖縄では大きな実を結んでいたのでした。

五十人以上集まった懇親会では、わが保守の会会員の鈴木幸人さんの紹介で、千葉の頑張れの方たちと知り合えましたし、我那覇真子さんにも紹介いただきお話をすることができました。良い旅となりましたが文章も長くなり、ここで終わらせていただきます。

沖縄は今は左翼の天下となっていますが、頑張れの人たちの努力で急激に変わろうとしています。




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