静岡保守の会|会報10月号

今月二十八日の定例会では、出席者の皆さんに「新しい歴史教科書をつくる会」の機関誌「史」を配りました。我々が応援、期待している杉田水脈女史が会の理事となられ、またその文章がとてもよかったからです。

この「新しい歴史教科書をつくる会」ができたのはもう二十年も前になりますが、当時の異常な言論空間の中で、この会は普通の一般社会人が自発的に集まったはじめての団体でした。

右翼でもなく政治団体でもなく宗教でもない、いままで政治活動をしたことのない私は、恐る恐るこの総会を覗いたのですが、参加者の皆さんは生業を持ち、人品卑しからぬ立派な方々でした。

会は内紛あり分裂ありで会員数は激減しましたが、今でも当時の会員と交際が続いています。けれども当時の左翼はよっぽど怖れたのでしょう、この穏健な団体を「極右団体」とレッテル貼りをして、今も若い人がそのまま極右の団体と思い込んでいる文章をみかけます。

最近のヒットは「日本会議」を、「裏で自民党をあやつる秘密結社」だと決めつけたレッテル貼りでしょう。

日本会議の会員数は四万人弱、保守系団体の最大数で、静岡保守の会から見れば夢のような数字です。けれどもそれほど国会議員が日本会議に縛られているようには見えませんし、だから議員も安心して日本会議に名前を連ねているのだと思います。

それより立憲民主党の党首に念書を書かせている○○〇派の圧力の方が、はるかに強烈でしょう。相手は過去に高名な事件を繰り返した団体です。実際○○〇派と毅然と対決したジェイアール東海の某名誉会長は某派の襲撃を受けています。

もうひとつ、レッテル貼りで成功した例では日本史学の大御所、平泉澄(ひらいずみきよし)博士です。わたしは二十年ほど前、福井県の生家を訪ねたことがありますが当時、博士イコール「皇国史観」、「皇国史観」イコール「平泉澄」という感じでした。

今の人には平泉澄は全く聴いたことのない名前でしょうが、戦前戦中には誰もが知るビッグネームでした。

そして実際、中世史、国語学、民俗学、思想哲学においても素晴らしい人だったと思いますし、文章も素晴らしい、文が人を表すとしたらこの人こそ、日本の良心、良識であろうと思います。

博士の紀行文集「山河あり」をなぞって岐阜県から山を越え、福井県勝山市の平泉寺白山神社の生家まで向かいました。御家族に平泉澄博士のファンですと告げ、少しだけお話ができました。

石碑、銅像のようなものはないということで、せめてお墓の場所はと伺いましたら、山の中で広いですよと言われました。見つけられないつもりでその杉林の中の墓苑を歩いて行くと、ちょうどお盆の時期だったので何人かにお墓の場所を尋ねると、誰もがお墓の場所を知っていました。

なにも特別なお墓ではありません。地元の人から大切にされているようで、立ち去る時にはご苦労様です、と奥の方から声を掛けられました。

その夕、地元の図書館で「平泉博士の書籍はありますか」と尋ねたところ責任者からまるで博士の事を知りませんという対応をされましたが、その方の苗字も「平泉」でした。知らない風を装っていたのではないかと今でも思っています。

平泉博士の出版物を漁っているうちに、現在も衣鉢を継ぐ人が思いのほか活躍していることを知りました。日本学協会、水戸史学会、軍事史学会などで現在無料の講演会が開かれていますし、博士が奉祀された回天の慰霊祭は、今も下呂で毎年行われています。

博士の名前を出さないまでも、博士の遺志をつぐ方々が処々で枢要な地位についているようで嬉しい限りです。先生のふるさと福井県が強力な保守王国であるのもその影響が残っているのではと思います。

この負のレッテルとは対照的なのは共産主義でしょう。ソビエトはA新聞、近衛首相周辺で戦争を焚き付け、またアメリカではルーズベルトの周辺に浸透しハルノートで日本に戦端を開かせました。

ロシア革命以来、人々の嫉妬・憎悪・欲望を掻き立てて一億ともいわれる人間を殺戮した凶悪の共産党がなぜ平和の党なのか、溜息が出ます。

参考図書―「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」三田村武夫著

「マオ―誰も知らなかった毛沢東」ユン チアン著




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