静岡保守の会|会報12月号

先日沖縄の戦跡巡りで行った、那覇市東隣に位置する南風原町(はえばるちょう)の陸軍病院壕での出来事を書こうと思います。

二十年四月一日、アメリカ軍の嘉手納への無血上陸を許してより、
日本軍は後退しながらも、首里城の主陣地を中心に持久していました。

いよいよここが陥落まぢかとなり、全軍は五月二十九日夜、平野部を越えて遥か後方の摩文仁(まぶに)のある南部丘陵地帯に撤退します。この時一緒にこの病院壕も撤退したのです。

壕にはヘルメットをかぶり、一人ひとり懐中電灯をもって入りました。

高さ、幅それぞれ1.8メートル、長さは70メートルで、ほぼ中間に壕と壕の十字路があり、そこが手術場、すぐ横奥がひめゆり学徒の女子休息所だったそうです。

沖縄には自然の洞窟も多く、此処のようにツルハシで人が掘った地下壕もありますが、どこも驚くほど多くの人間がすし詰めで生活していたようです。

ここでは専属の職員なのかボランティアなのかが居り、陰々滅滅と希望のない解説をしてくれました。(当時の人々の勇敢さやひたむきな努力を語ってくれれば良いのにと思いましたが。)

話を聞き流しながら、トンネルを抜けて出口まで来ると「埋められた医薬品類」のパネル写真がありました。

ボランティアによれば、これらの薬品は出口のすぐそばに埋められていたそうです。

「持てるだけのものを持って、持ち切れなかった薬は隠したんですね。また戻って来れたら掘り出して使おうと思ったんでしょう。でも結局帰ってこれなかったんですが」と最後に笑いを含んで言ったのです。

なんとか態勢を挽回するかして、戻れさえしたら一所懸命治療をしたい、そう思った日本軍の人々のことをなぜこのいい歳をした男は皮肉めいて嘲笑するのでしょうか。

数十年間日本の悪口を言い続けて、正しい感情が麻痺してしまったのでしょうか。

この壕に来る一日前には、読谷村(よみたんそん)で忠魂碑を見つけました。

その解説文には「忠魂碑は当時、天皇と国家のために死んだ軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するためのもので、国民全員に同じ忠誠を叩き込むことに利用され、その結果、多くの若者が死地に追いやられたあげく敗戦の憂き目にも遭いました。

忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが・・・以下略」と書かれていました。

巧妙な文章で、「忠魂碑というものは、軍人や軍属のためのもの」と書かれていますが、実際には忠魂碑とは「一般国民に対してのもの」のはずです。

一般国民が「私たちを守るために兵隊さんたちが命を賭してくれた」ことに思いを馳せるためのものです。

今の沖縄に蔓延する「沖縄が日本の捨て石にされた、沖縄だけが戦場になった」というロジックをけして軽々しく認めてはいけません。

遠い昔には沖縄に復興資金を出させる方便でもあったでしょうが、現在では沖縄を日本から分断させようとする外国勢力の侵略に利用されているプロパガンダだからです。

善良な多くの人々や、子供たちの情緒や思考を、先ほどのボランティアのように無残に捻じ曲げてしまっているのです。

広島・長崎の原爆、一夜で十万人が亡くなった東京大空襲を上げるばかりでなく、全国の都市で人が殺され、沖縄に向かった日本正規軍の死者は65908人でした。(沖縄県民の死者は178228人)

日本はよく戦ったし、よく守ったのです。米国大統領ルーズベルトは無条件の降伏しか認めないと言明していましたし、日本人を極端に嫌い、ソ連共産党に最大限の利益を与えようとしていました。

平和裏に決められた領土の変更は大西洋憲章にも国際連合の宣言にも反するにかかわらず千島列島を独断でソ連に与え、捕虜の強制労働も認めさせています。

振り返って無条件降伏でなかった第一次大戦後でさえ、ウイルソン大統領の思惑でオーストリアハプスブルグ帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国が解体され、中東欧は内戦に次ぐ内戦の泥沼に陥りました。

そして第二次大戦後においてもソ連と中共と米英によって、広大な面積の土地と財産が奪われ人々は難民化していったのです。

日本ではあまり知られていませんがフランス、イタリアでは負けた側と勝った側、或いは共産主義者が女子供を含め殺しあうことになったのです。

それにくらべて日本はどれほど幸運であったでしょう。それは正義を信じて最後の最後まで戦い抜いたためだと思います。


▲写真左側:南風原町 陸軍病院壕 入口

▲写真右側:発掘された医薬品類

      

▲写真:読谷村の忠魂碑 (何者かに忠魂碑の文字が削られている。)

 




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