静岡保守の会|会報30年5月号

 連休中に愛知県東海市の細井平洲の記念館に行きました。

 儒学者としては新井白石や荻生徂徠などに比べて有名とは言えませんが、ケネディ大統領が尊敬した上杉鷹山が、身分の差を超えて弟子の礼をとった大儒、といえば思い出す方もいるかと思います。

けれども生誕の地、東海市では平洲小学校、平洲中学校、平洲保育園、酒やお菓子の名前など、どこにも「平洲」が使われています。町おこしのため、ばかりとは思えません。二百年も前の郷土の偉人を大切に守っているのでしょう、田園風景の中の平洲記念館は無料ながら立派な建物で、開館前には何人もの職員が外回りの清掃をしていました。

 展示物は細井平洲直筆の書画、関連する全国地図、江戸時代から現代までにわたる平洲先生関連の書籍、そして平洲先生の唱えた有名な言葉を大書したものなど。

 個人的にはワクワクして見学しましたが、はじめて平洲先生の名を聞く人のために、先生周辺のエピソードを紹介したいと思います。

 平洲は十代半ばより学問で身を立てようと京都に遊学しましたが学ぶべき師を見つけられず郷里に戻ります。十八歳の時、通っていた塾の伝手(つて)で長崎に中国語を学びに向かいました。記念館には長崎に向かった少年時の漢詩連作が、掛軸に仕立てられて、その浮き立つ気持ちが伝わってきます。

 一般的な儒学者の道程は儒学の経典を研究し、説を唱えて認められる、学閥の長となって思想、哲学史に名前が残るわけですが、平洲の場合は現代中国語ができますというのがスタートだったので、中国文学者の興味をひかず今にその名が知られていないのでしょうか。

 けれども平洲は学問について優秀であり生活態度でも温柔敦厚で全国に多くの門人を持つようになりました。その本領は学術研究よりも人間としての実践であったようです。

 平洲のいくつかの言葉が、記念館に掲げられていました。

①「学 思 行」

学んだことは、よく考えて、そして実行する。それではじめて、学んだということになる。

②「先施(せんし)の心」

人との付き合いにおいては、地位の高い低い、老いた者と若者、賢い者と愚かな者といった事を問わず、まず自分の方から働きかけることが大事である。

人に親しみを持ってもらおうと思ったら自分から親しみを持ち、尊敬されようと思ったらまず相手を尊敬する。それも地位の上の者から親しみ、尊敬しなければいけない。その先施の心がなくて下の者がなついてくることなどできないではないか。

③「勇なるかな 勇なるかな 勇にあらずして何をもって行わんや」

この言葉は米沢藩(十五万石)藩主上杉鷹山(ようざん)が初めてお国入りする時に贈った言葉です。

 米沢藩は元々上杉謙信の三百万石、秀吉時代には会津に封ぜられて百二十万石、それが関ヶ原で負け、さらに実子が生まれなかったりで十五万石の中流大名になっていました。けれども家臣団は気位が高く、格式に拘泥して、鷹山が藩主になった時には藩籍を返そうとして止められたほどの日本一貧乏な藩でした。

ここで勇気をふるって鷹山は藩政の改革を決心します。この時米沢藩の家老たちは鷹山を一室に監禁し引退を迫りますが、ついに家老二人に切腹、重役たちを隠居閉門、弾劾文を草した藩儒の首をはねて、決意のほどを示します。そして十年後の悲惨で有名な天明の大飢饉に際しては十五万人、二年分の籾(もみ)が蓄えられるほどになっていました。

 おなじく平洲に学び、紀州の麒麟(きりん、優れているの意)と呼ばれた紀州五十五万石の徳川治貞(はるさだ)は別の方法で財政の立て直しをします。三万石の分家から御三家の紀州徳川家に入った時、十月の声を聞くと城中全ての部屋に火鉢を出す習慣になっていました。

さっそく治貞が「人のいない部屋にまで無駄なことである」と命ずると老臣たちは皆で「これは当家の先格でござれば」ときかない。なにもかも先例を頑固に守る者達ばかりで、正面からぶつかっても勝つことはできそうにない、そう考えた治貞はまず三度三度の贅沢な食事から改めることにします。

それも争うことはせず「私は歯が良くないので主に豆腐を食している。当家ではいろいろな献立が出るが、見ればつい歯に悪いものでも食べてしまう。今の献立が先代からのしきたりであれば今まで通り作るが良い。けれども私の前には出さず豆腐料理だけを出してくれ」と頼みます。

係りの奉行はしきたり通りの料理を作りますが、毎日毎日隣の部屋に置かれて料理が無駄になっていく。いつのまにかこのしきたりはなくなっていきました。このようにして徳川治貞は十四年間の治世で十万石の貯(たくわ)えを作ったということです。

 平洲は各藩で政治に関与した可能性はあります。藩主、家老との面談はけして口外せず重職からの書簡はその都度焼却したと伝えられているからです。

 米沢では藩校興譲館を興(おこ)し藩士たちに講義をしますが、そればかりでなく村々に出かけて婦女子にまで講談を行いおおいに風俗が改まったということです。それを伝え聞いた尾張藩中興の名君、徳川宗睦(むねちか)にも招かれ藩校明倫堂を興します。

 米沢では藩主鷹山侯の賓師という立場でありましたが、尾張は平洲の生国(しょうこく)ということで、初めて四百石の禄を受けています。教育者、というのが細井平洲の評であるようです。

左:平洲記念館入口
右:身分の高い上杉鷹山が城外6キロの遠方まで先生を迎え、送ったということで当時評判となり、また戦前の教科書でも広く知られた美談




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