静岡保守の会|会報30年8月号

名古屋駅昭和22年

 今年も八月のNHKは終戦特集でした。その中でたまたま見たのが、駅に集まってきた戦災孤児たちの話でした。

 昭和二十年の敗戦でタガの外れた日本は飢餓の列島となり、両親を戦死や空襲で失った孤児たちはみずから東京あるいは大阪などの大都市の駅に集まっていきました。今まで親切でやさしかった親戚から「お前らに食わせるものは何もない」と攻め立てられたのが一番辛かったと八十近くになった老人が当時の回想をしていました。

少年少女たちの駅構内の生活は悲惨そのもので、毎日のように病気や飢えで死ぬ者があり、子供たちは垢まみれの衣服でひどい皮膚病に侵されていました。思い付きのような占領軍の指示で浮浪児狩りが行われましたがその保護すべき収容所も劣悪で、多くの子供たちは脱走し再びどこかの駅で露命をつなぐ生活を選んだのです。

 NHKの放送意図は、戦争は良くない、してはいけない、ということでしょう。現在の日本国民の大多数の反応も戦争は良くない、してはいけない、というものだと思います。昨日、憲法改正に関して一般の方々が討論をするというDVDを見ました。

一人の若い女性が「憲法改正によって日本がアメリカの戦争に巻き込まれる恐れがある」と言っていました。「アメリカの戦争に巻き込まれる」とは何度も聞いたことのあるフレーズですが「中国の戦争に巻き込まれる」という言葉は聞いたことがありません。同じ討論会の中で、絵に描いたような九条信者が「中国が戦争してくるわけがないじゃないですか」と言っていました。なんの根拠があって言っているのでしょうか。

 元防衛大臣、もしかしたら首相になるかもしれない石破茂がテレビで「どうしてあんな戦争になり、どうして止めることが出来なかったかって検証をやらないで、九条を語っちゃいけない。もう一つは戦争の体験をした人達が生きてる間に、戦争を知らない人間ばっかりで九条の改正ってやるべきだと思わない」と語っていました。

何を言っているのかさっぱりわかりませんが、それよりも「どうして戦争になったのか」を検証しないのは石破のような人々が検証させないで来たからです。なぜ戦争になったのか、私は知っていますし、当時武器を取って立ち向かった人々も限られた知識の中でそれなりに知っていたのです。戦争は向こうから来たのです。向こうの都合で来るのです。

 悲惨な戦争孤児を生み出さないためには「戦争は良くない、してはいけない」と言って耳と目を覆って思考停止するのではなくて「戦争には負けてはいけない」のです。
 実は日本は昭和二十年以降も戦争に負けているのです。

 1952年(昭和二十七年)日本が独立する寸前、その間隙を選んで韓国は日本の竹島を奪います。漁撈中の日本漁船を警告なしに銃撃してきたのです。それから日韓条約の結ばれる1965年(昭和40年)までに死傷者四十四名、抑留者三九二九名を出しました。

アメリカは竹島は日本の領土だとして韓国を抑えようとしましたが、日本が自ら戦わない以上(日本では韓国の船を「怪船」と呼ぶ遠慮深さでした)韓国のするがままに任せてしまいます。しかもこの抑留者は日韓条約を結ぶ際の韓国側に有利にするための人質となっていたのです。

 この銃撃事件については「あれが港の灯だ」(昭和三六年 主演江原真二郎)という映画が、在日の青年を主人公にして良く描いています。このような仕打ちも日本が普通の国のように軍備をもっていれば起きなかったことなのです。

 九条信者や自衛隊歯止め論者の言いたいことはわかっています。

「殺すよりは殺される方を選びます」あるいは「戦争に負けても平和が尊い」です。我々は彼らに本当にそうかと問わねばならない。

 戦争孤児を救ったのは政府でもアメリカ軍でもありませんでした。政府から委託された金の亡者ではなく、民間の、自分の生活を切りつめても子供たちを助けたいという勇気ある人々でした。命や正義を軽く考える人、戦争になったら戦わないで手を上げましょうという人ができるはずはありません。




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